葱善
葱善
■浅草葱善のはじまり
浅草葱善は、明治時代から約130年。4代にわたって続いている、浅草の老舗葱業者です。
それ以前。江戸時代までは三河島(荒川区)の農家だったという記録が残っています。現在も菩提寺は三河島の観音寺にあります。
古くから江戸とともにあった一族で、幕末のころは、上野戦争の前に三河島を訪れた彰義隊を無償でもてなし、その後。上野戦争で敗れた彰義隊が落ちのびる際に、武具をもてなしの礼として置いていったという伝説が語り継がれています。
続く明治の文明開化以後、浅草では牛鍋(あぐらなべ)需要から牛鍋屋が増え、鍋の具として良質なネギが売れることから、農家から葱業者に転身。明治18年(1885年)初代、田中善太郎が浅草葱善を創業しました。
■浅草葱善の歴史
明治から昭和の初期にかけては、良質なネギの栽培地だった千住から品質の良いネギを仕入れ、大八車で浅草まで運んでいました。
明治の頃にはすでに「千住からやってくる良いネギ」を「千住葱」と呼ぶ呼び方が定着していたそうです。
また浅草は牛鍋屋はもちろん、吉原や花柳界、料亭が多く、高級食材として葱善のネギはもてはやされ、葱善は浅草という土地に根付いていきました。浅草寺の玉垣にも、浅草葱善の名が刻まれています。また、天狗で有名な小田原の最乗寺(どうりゅうさま)の階段にもご縁があったようで、石段に名前が刻まれています。
戦中戦後は2代目、田中庸介が盛り立てました。この庸介氏のエピソードとして、昭和11年(1936年)に赤坂を訪れた際、二・二六事件を引き起こした青年将校の一団と遭遇し、銃剣を突き付けられたという、歴史の息吹を肌で感じられるような逸話も残っています。
戦後しばらくは、昭和14年から始まった価格等統制令により物資は配給のみとなり、葱業者としての活動を行えない時期もありましたが、昭和25年に統制令が撤廃されると、千住河原町に新設された「山柏青果物卸売市場」から仕入れるネギを中心に、再び浅草の千住葱を担う地元の葱業者として復活。
現在では葱問屋業だけにとどまらずに、ネギの生産販売もてがける葱業者として今日に至っています。